2013年04月

主無き肉塊

東日本大震災に見舞われた東北、関東に於いて、あれほどの大災害にも拘らずパニックを起こす事も無く、マナーの良い秩序立った行動に終始した日本人(厳密には東北人と関東人)を海外のあらゆるメディアは賞賛し、感嘆の声をあげた。未曾有の大惨事とあって、お情け半分の外交辞令とも言えようが、当事者である関東人の私はその報道に接し、嘲りを含んだ失笑を禁じえなかった。海外メディアによる日本人メンタリティの分析、見解は極めて稚拙且つ表面的なものでしかなく、『日本人の心には現代も根強く神仏の精神が宿っている』、『日本人は如何なる局面に於いても、感情を抑制する崇高な倫理観を身に着けている』などと伝えていた。笑止千万噴飯ものである。では、年々歳々バカの一つ覚えの如く繰り返される、春の狂宴花見の後の、恐竜が吐瀉物をぶちまけたかの様なあの惨状は如何であろうか。昼下がりのファミレスで、縦横無尽に走り回る幼児を放置したまま談笑に耽るあの知能指数の低い母親達は如何であろうか。産地偽装された放射能被曝食品が全国に出回っている現状は如何であろうか。混雑した地下鉄にベビーカーを押して平然と乗り込んでくるバカ親は如何であろうか。このような、誰の日常にも起こり得るお粗末な状況を想起すれば、日本人に高い倫理観が備わっているなどとは、とても言えないのではないか。震災時、少々の混乱はあったにせよ、秩序を保った行いを可能にした素因は、日本人の倫理観や道徳心に含まれるものではない。それは、日本人特有の集団意識なのである。日本人は常におずおずと四囲を見渡し、自分一人が他者と異なる行動を取る事を極度に恐れる。決してその自らの行動の正誤を自問することなく、珈琲に入れる砂糖が如く唯々諾々と周囲に溶け込み、波風を立てずにその場をやり過ごそうとする。そして、そういった態度こそが、分別のある大人だと言わんばかりの澄まし顔をしているのだ。過日、東京都下の陸運局へ赴いた時のことである。私の手続きは途中であったが、杓子定規な昼休みの為、木っ端役人共は中座してしまった。仕方なく私も中食とするかと陸運局の外に出た。陸運局というものは、大抵街外れの閑散とした荒地に押しやられ、周辺には碌な飲食店が無いのが通例であり、やはりそこも例外ではなかった。辺りを歩いても、寂れた代書屋数件と看板の錆びた小さなガソリンスタンド、やっているのかいないのか判らない自転車屋、中途半端にシャッターが開いている電器屋などが並ぶばかりで、飲食店らしきものは見当たらなかった。諦めて陸運局に戻ろうと通りを一つ入ったところ、日当たりの悪い住宅地の中に一軒のラーメン屋がぽつねんと、薄汚れた紅い暖簾を揺らしていた。『中華料理 萬陳楼』。萬でも陳でも構わぬが、他に選択肢があるで無し、戸を引いて中に入るや、七十路に至らんとする老夫婦が、その些か衛生状況に問題がありそうな店を切り盛りしていた。周囲に競合店の全く無きが故か、逆賭に反して客入りは芳しく、私が独座すればほぼ満卓であった。私がラーメンと半チャーハンを言いつけると少時の間をおき、脊背を丸めた老婆がよろよろと、それを運んできた。斯様な僻地に旨い店など在る由もなく、決してその味に期待なぞしていなかったが、供されたその代物の不味たるやそれにしても甚だ酷いもので、私は、こんな嗟来の食が如き食餌は畜生にでも食わせよとばかり、ほんの少し箸をつけただけで止めてしまった。すっかり不興顔となった私が紙巻に火を着け、煙を呑みながら他客を見渡すと、皆一様にその悪味料理が載った皿鉢に、何ら疑問を抱くこと無きが模様でガツガツワシワシと喰らい付いている。それら他客の食いっぷりは、私の味覚が異常なのかと思わせるほどのものであった。そうこうしていると大方の客は、在東京都下萬陳楼謹製世紀のお粗末料理を食い終わり、やつがれ同様紙巻を吸う者、スマホを捏ね繰り回す者、連れと談笑する者など、皆それぞれ食後の一服とあいなった。私が二本目の紙巻に火を着けると、一服終わった一組の客が立ち上がり、己の食い尽くした皿鉢を、老婆が立ち働く洗い場のカウンターへと運んだ。するとどうであろう、それを見ていた他の客も、鼻の穴からふてぶてしく煙を出し続ける私を尻目に、次から次へと己の皿鉢を洗い場のカウンターへ運び始めたのである。この不気味ともいえる光景を目の当たりにし、虫唾が走った私は、即座に老婆へ問うた。「これこれそち、そこの醜きオババよ。この小汚き店は食い終った皿鉢を客に片付けさせるのが規則か。郷に入っては郷に従え、規則は守らねばいかん。規則ならば余も大人しく従うぞ。如何じゃ」 「いえいえ何を仰いますか何処ぞの御住職様、規則などでは御座いませぬ。お客様がご親切で運んで下さっているだけです。どうかそのままでそのままで」 「なぬ!失敬をぬかしおって!ますますもって聞き捨てならん!ならば片付けぬ客を不親切だと言うか!その言い分では片付けよと婉曲に強要しているのと同位ではないか!」 「はは、滅相もございませぬ。どうか御勘弁を」 「フンっ!余は片付けぬぞ。片付けてなるものか!この戯け者めが!」。眼前に立ち現れる事象を無批判に受け入れ、思考停止に馴れきった浅薄者は、この粛々と皿鉢を運ぶ客の流れを見て、それをマナー善き行動と言うだろう。しかし、読者諸彦はお気付きかと信じたい。この客達は、己の脳で考え、自らの判断で皿鉢を運ぶべきと考えたのではない。ただ先行者に付き従い、猿真似をしたに過ぎず、しかしそれでありながら、その行為全体をマナー善きものとして信じて疑わないのである。彼らがまるで憑かれたように皿鉢を運ぶのは、自分だけ皿鉢を運ばずに知らん振りしていると他の客に非常識だと思われるから、マナーの悪い下品な奴だと思われるから、老夫婦が懸命に働いているのに手を貸さぬのは冷酷だと思われるのが嫌だからなのである。如何に皿鉢を運ばぬ事に正当性、合理性があっても、誰か一人が皿鉢を運び始めた瞬間、彼らの思考は止まる。そして次から次へとひたすら前者の模倣を続けながら、したり顔で私のような人間を嘲り蔑視する。地下鉄のエスカレーターで、急ぐ者の為に右側を空けんと整然と左側に身を寄せて乗るあの無表情で、あたかも看守に見張られた囚人が移動しているかのような群集を目にする度に、私は背筋が凍る思いがする。エスカレーターとは、駆け上がるものではない。駆け上がるのなら階段にせよと云っても彼らは聞く耳を持たない。論理も倫理も合理もそこには存在しないからだ。そこにあるのは理と知が排斥された、日本社会特有の吐き気を催すような低レベルのメダカ型模倣原理なのである。日々一所懸命に仕事をし、所帯を保ち、童児を育て、休日は趣味に興じる。私とは対極を成す生き方ではあるが、そこに知が含まれていれば、その行為一つ一つに理が宿っていれば、私はそれを否定しない。しかし理知欠乏の生活に甘んじている者を、私は徹底的に侮蔑する。猿でも餌を採ってくる。猿にも家庭がある。猿でも子供を育て、遊びに興じる。そして猿はおろか犬でも猫でもカラスでも、本能的にその程度の生活を営む。これら畜生と人間との差異は、その行動原理においての理知の含有率に収斂されるのではないか。理知の鍛錬という、人間が人間たらんとする必須条件を無意識のうちに忘却し、人としての主体性を失った主無き肉体は、ある極点に達した刹那、凶行に奔る。発狂したドブ鼠の如く、おぞましい共食いを始める。そして肉体は肉塊へと化す。能面を着けた主無き肉塊は、暴走するカルト資本主義の更なる加速装置としてそのグロテスクな醜態を晒した挙句、支配者から無価値と断ぜられた途端に生ゴミ同様、遺棄されるのである。

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